幕末の外国人殺傷事件は鎌倉でも起きていた「鎌倉事件」

幕末の日本では、攘夷運動などの外国人を排斥する運動が起こり、外国人を標的にした殺傷事件が何件か起きています。

鎌倉からも近い現在の横浜市でも、生麦事件と井土ヶ谷事件が起きいます。

しかし、鎌倉でも外国人殺傷事件が起きていたことは意外と知られてないようです。

横浜で起きた生麦事件

外国人殺傷事件として有名なのは生麦事件です。

生麦事件は、外国人を標的にした事件ではなく、大名行列を横切ろうとした外国人が無礼討ちにされたという事件です。

 

薩摩藩主の父である島津久光の一行が横浜の生麦村を通ろうとしていると、4人のイギリス人が横切ろうとしたため、薩摩藩士が注意をしました。

たまたまその日はイギリス人の一行に通訳がおらず、薩摩藩士の言っていることが伝わらなかったため、そのまま通り過ぎようとします。

 

当時はまだ江戸時代でしたので、大名行列を横切る行為は無礼とされていました。さらに相手は武勇をもって知られた薩摩藩ですからただでは済みません。

イギリス人の無礼な行為に激怒した薩摩藩士の奈良原喜左衛門が斬りつけたことから、イギリス人一行は次々と薩摩藩士に襲われていきます。

イギリス人の一行は、1人が死亡、2人が重傷を負うという惨事に見舞われました。

 

この事件が他の外国人殺傷事件と違って歴史的大事件とされているのは、大名行列が原因で起きた事件であり、後の薩英戦争の原因となったからでした。

 

イギリスは、幕府に対して生麦事件の賠償を請求しましたが、幕府は直接薩摩藩と交渉するようにいいます。

イギリスは薩摩藩と直接交渉しましたが結局交渉はまとまりませんでした。

交渉がまとまらず、イギリス側が薩摩藩の船を捕らえたことから、イギリスと薩摩の間で戦争が開始されました。

薩摩側は、鹿児島の街が焼失するという被害をこうむりました。

しかし、イギリス側も戦争を継続するだけの余力がなく、3か月後にイギリスと薩摩は講和したというのが生麦事件のいきさつです。

 

生麦事件発生現場は、横浜市鶴見区の生麦の住宅地内にあります。

生麦事件の発生現場とされる場所に設置されている案内です。

生麦事件発生現場から徒歩10分くらい横浜方面に歩くと、生麦事件碑というものがあります。

明治16年に建てられたという「生麦事件碑」です。まわりにはビール工場があります。

幕末の鎌倉で起きたイギリス人殺傷事件「鎌倉事件」

幕末の日本では攘夷運動が盛んにおこなわれ、外国人を襲う事件がたびたび起きています。

鎌倉以外ではあまり知られていませんが、鎌倉の「下馬」交差点付近でも「鎌倉事件」と呼ばれるイギリス人殺傷事件が起きています。

元治元年(1864)10月22日、横浜に駐留していたイギリス軍の2名の士官が、休暇中に江の島を観光していたその帰り、現在の下馬交差点付近で何者かによって襲撃され斬殺されるという事件が起きます。

鎌倉から近い現在の横浜市では、1862年に生麦事件が起こっており、また、1863年には井土ヶ谷事件が起こっていますが、いずれも犯人逮捕には至っていませんでした。

このことを受けて、幕府はイギリスから犯人の逮捕と処罰を強く要求されました。

イギリスの要求を受けて犯人逮捕に向けた捜索に乗り出した神奈川奉行所は、犯人はどうやら2人組らしいというとこまでは掴んだのですが、犯人逮捕には至りませんでした。

 

しばらくして、別件で蒲池源八と稲葉紐次郎を逮捕すると、鎌倉事件の主犯が浪人の清水清次ということが判明します。

この知らせを受けたイギリス人のオールコックは、直ちに2人を処刑し、清水を逮捕するように要求しました。

オールコックの要請を受けて、幕府は蒲池と稲葉を横浜で処刑し、翌日には清水も逮捕されました。

逮捕された清水は、横浜市中引き回しの後、処刑されて3人の首は吉田橋にさらされました。

関内駅直ぐ近くにある「史跡 吉田橋関門跡」です。

 

最初は、鎌倉で処刑するようにオールコックに要求されましたが、鎌倉は神聖な場所であるとの理由から横浜で処刑されたそうです。

横浜市教育委員会による「吉田橋関門跡」の案内

「安政六年(1859)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。

吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。

関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(1864)二月に吉田町側に移設されました。

関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。」

 

鎌倉事件の主犯とされる清水清次がさらし首にされた画像はネットで検索すると見れます。

下馬交差点付近の看板にあった鎌倉事件当時の現場の写真「長崎大学附属図書館所蔵(F・ベアト撮影)」

今の鎌倉と違い過ぎて、これだけだと場所の特定は無理ですね。

おわりに

幕末に連続して起った外国人殺傷事件の多くは、犯人不明のままですが、鎌倉事件では初めて犯人の逮捕に至りました。

 

今のようにDNA鑑定や指紋鑑定がない時代によく逮捕できましたね。

相当な拷問が行われたのでしょうか。