鎌倉七口(切通し)のまとめ

鎌倉時代の鎌倉は、南に海があり、北・東・西の三方は山に囲まれていましたので、鎌倉と外をつなぐための切通しがいくつも作られました。

切通しというのは、山や丘を切り開いて作った道のことです。

鎌倉でも特に有名な切通しは「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼ばれています。

今回は、そんな鎌倉七口をまわってきました。

鎌倉七口の概要

鎌倉七口と呼ばれる切通しは、以下の七つをいいます。

・朝夷奈(朝比奈)切通(あさいなきりどおし)

・名越切通(なごえきりどおし)

・巨福呂坂(こぶくろざか)

・亀ヶ谷坂(かめがやつざか)

・化粧坂(けわいざか)

・大仏切通(だいぶつきりどおし)

・極楽寺坂(ごくらくじざか)

 

下の画像は、鎌倉駅を中心とした地図ですが、赤の丸で囲んである場所が鎌倉七口になります。

地図の右から朝夷奈切通、名越切通、巨福呂坂、亀ヶ谷坂、化粧坂、左二つのうち上が大仏切通で、下が極楽寺坂になります。

地図を見て頂ければ、鎌倉を中心に囲むように切通があるのが分かると思います。

 

鎌倉七口が資料に出てくるのは江戸時代からのようですが、七口の中には成立が不明なものもあります。

鎌倉七口の中には、現在も当時の面影を残している切通があります。反対に、巨福呂坂のように通れなくなっている道があれば、極楽寺坂のように道路として整備された道もあります。

 

鎌倉七口の中で実際に歩いてみることをおすすめするのは、当時の面影を残している「朝夷奈切通」「名越切通」「大仏切通」「化粧坂」あたりです。

朝夷奈切通(朝比奈切通)

朝夷奈切通は、鎌倉と六浦を結ぶ切通で、このブログで何度も紹介しました。

六浦は、鎌倉の外港として発展し、六浦湊からは朝夷奈切通を通って塩などが鎌倉に運ばれました。

朝夷奈切通は、執権北条泰時が自ら工事を指揮したという言い伝えがあり、1241年に開削しました。

 

和田義盛の三男・朝夷奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説もあります。

義秀は和田合戦で少ない兵でたびたび北条軍を破り、一時は幕府を占領するほどの活躍をしています。

 

鎌倉七口の中でも、最も当時の面影を残しているといわれる切通しです。

名越切通

名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ切通です。

途中には、「まんだら堂やぐら群」と「大切岸」といった面白い史跡があり、このブログでも紹介しました。

 

まんだら堂やぐら群は、現在調査中なので普段は公開してませんが、時々一般公開することがあります。

大切岸は、最初は三浦半島の最大勢力であった三浦氏に対する備えのために造られたとされてましたが、その後の調査で石切り場ということが判明しています。

大切岸近くの法性寺には、日蓮が松葉ヶ谷の法難を避けたと伝わる洞窟もあります。

 

名越切通も朝夷奈切通と並ぶおすすめの切通です。

巨福呂坂

巨福呂坂は、鶴岡八幡宮裏の雪ノ下と山ノ内を結ぶ切通です。

ただし、途中の道は、私有地になっているため先に進むことは出来ません。

巨福呂坂の現在は奥が私有地になっていて通行ができませんでしたが、途中まで行ってみました。ここより先にも行きましたが、途中で道がなくなっていて先に進めませんでした。

 

切通しの途中にある「青梅聖天社」は、南北朝時代に作られた双身歓喜天を祀っています。

歓喜天は、仏教を守護し、邪悪を除去し、諸願を成就してくれる尊体として信仰され、峠を往く人々の安全を守ってくれるそうです。

亀ヶ谷坂

亀ヶ谷坂(かめがやつさか)は、山ノ内と扇ガ谷を結ぶ切通です。

開削の詳細は不明ですが、13世紀中頃には道が整備されたのではないかということです。

亀ヶ谷の途中の道は、狭いですが道が舗装されているので、バイクや自転車でも通行できます。途中の道にはポールがあるので車は通行できません。

現在も鎌倉西口から北鎌倉に抜ける通り道として利用されています。

 

「この道は、扇ガ谷と山ノ内とを結ぶ、亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通とは、山を切り開いて造られた道のことで、交通を容易にするとともに、防御の拠点ともなっていました。

亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中ごろには切通として整備されていたようです。『吾妻鏡』によれば、幕府が鎌倉市中の7箇所の商業区域の1つとして「亀谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と、鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は、経済的にも、軍事的にも、重要な場所だったことがわかります。

江戸時代には「鎌倉七口」の1つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。」

化粧坂

源氏山公園から化粧坂(けわいざか)を下って行くと、扇ガ谷に出ます。

化粧坂は短い切通ですが、新田義貞は化粧坂を守る北条軍に攻めかかっても攻めきれず、結局義貞は稲村ケ崎の南側を迂回して鎌倉入りしました。

化粧坂を上って行くと源氏山公園の頼朝像がある広場の近くに出ます。

化粧坂は、道が狭いので寡兵で守るには適していたようです。

 

坂を下りた先には、海蔵寺や岩船地蔵堂があります。

 

化粧坂の案内板です。案内板は源氏山公園側にあります。

大仏切通

大仏切通は、長谷と常盤を結ぶ切通です。

途中の道は、ハイキングコースにもなっています。

 

階段は多いですが、名越切通や朝夷奈切通よりも歩きやすいと感じました。

大仏切通の正確な開削時期は明らかではありませんが、鎌倉中期(1241~1250)頃と推定されています。

常盤側の出口には、いくつかのやぐらを確認できます。

極楽寺坂

極楽寺坂は、鎌倉西南にあった切通しで、極楽寺と由比ガ浜を結ぶ切通です。

 

鎌倉時代末の新田義貞と北条一門の大仏貞直が激戦を繰り広げたと伝わる場所です。

北条軍の守は固く、義貞の軍は突破することができませんでした。

極楽寺坂の碑が立っている写真の道は、「海街diary」にも出てました。

 

映画版の方が鎌倉の景色も堪能できます。

 

「此所往古畳山なりしを極楽寺開山忍性菩薩疏鑿して一條の路を開きしと云ふ。即ち極楽寺切通と唱ふるは是なり。元弘三年の鎌倉討ち入りに際し、大舘次郎宗氏、江田三郎行義は新田軍の大将として、此便路に向ひ、大佛陸奥守貞直は鎌倉軍の将として此所を堅め相戦ふ。」

まとめ

鎌倉と外とをつなぐ道を切通しといい、特に有名な切通しが鎌倉七口です。

切通しの中には、歴史を感じることができる道もあるので、ハイキングを兼ねて探索するのもおすすめです。

 

巨福呂坂、亀ヶ谷坂、極楽寺坂は、このブログで初めて紹介してみました。