ゴールデンウィークの「由比ガ浜」と「稲村ケ崎」

ゴールデンウィークは、5日に帰省して7日までの3日間、どこに行くこともなくゴロゴロしてました。

ゴールデンウィークの鎌倉では、半分くらいは県外ナンバーというくらい観光客が多く、道が狭いために立ち往生してる車も何台か見かけました。

ゴールデンウィーク中に管理人がやったことといえば、ブログのアップくらいです。それだけだとなんだかもったいないような気がしたので、ゴールデンウィーク最終日に由比ガ浜と稲村ケ崎に行きました。

ほんとうは江ノ島に向かいたかったのですが、途中の国道134号線があまりに混雑しており、結局、稲村ケ崎で休憩した後、周辺を散策して、再び稲村ケ崎で夕陽を見てから帰宅しました。

由比ヶ浜海岸

最初は江ノ島に向かうつもりで家を出ましたが、途中の道が凄い混雑してました。

鎌倉の人はゴールデンウィークは市内一帯が混雑することを知っているので、外出せずに家でおとなしくしている人も多いみたいです。

 

江ノ島に向かう途中に由比ヶ浜海岸があるので、管理人は江ノ島に向かうときはだいたい由比ヶ浜海岸に立ち寄ります。

ゴールデンウィークなので混雑してると予想してましたが、思っていたほどではなかったです。

ゴールデンウィークの初めあたりから、20度を超える日も出てきましたが、この日はまだ肌寒かったです。

中には半そで姿の人もいましたが、長袖の人の方が圧倒的に多かったです。海開きはまだ先なのに、人出はそこそこあります。

十一人塚

由比ヶ浜海岸の次は、十一人塚に行きました。

稲村ケ崎公園入口前から住宅地に入って行くと、「十一人塚」があります。

 

1333年に新田義貞が鎌倉攻めをした際、義貞の一族の大館宗氏(おおだてむねうじ)が極楽寺坂を攻めましたが、逆に北条軍の攻撃で多数が死亡しました。

最後に生き残った十一人は、十一人塚のある場所で自刃して果てたといわれています。

十一人が自刃した場所に、十一面観音像を建てて霊を慰めたそうです。

十一人塚と石碑です。

 

「元弘三年五月十九日、新田勢大館又次郎宗氏を将として極楽寺口に攻入らんとせしに、敵中、本間山城左衛門手兵を率いて、大館の本陣に切込み、為に宗氏主従十一人戦死せり。即遺骸を茲に埋め、十一面観音の像を建て以て、其の英魂を弔し、之を十一人塚と称せしと云う。」

 

鎌倉市教育委員会の看板

「元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めに際し、新田氏の一族である大舘宗氏は極楽寺坂の切通から鎌倉へ攻め込みました。しかし北条方の反撃にあい、宗氏以下11人は稲瀬川で討死したと伝えられます(太平記、梅松論)。十一人塚は、その11人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を弔った所といわれます。」

金山の白山神社

鎌倉幕府開幕後は、まだ極楽寺坂の切通はなく、金山と呼ばれる山があったそうです。

極楽寺川の岸にそった坂道をのぼって行くと、まず長史頭のいる小字金山だ。そこをすぎると、もう、極楽寺しかない(弾左衛門の謎・塩見鮮一郎)。

金山の山頂には、白山神社があります。

部落の鎮守は白山社で、山の高所に鎮座して小祠、祭礼は九月十八日、ご神体は岩座女神の立像、両手に蛇を捧げ、頭部は渦巻、極彩色の江戸期のもの、虫歯に効能があり、萩の箸を納めて、参詣者が絶えないとのこと、各自屋敷構えの垣根を廻らしており、農耕を主として全部由井姓です(特殊部落の研究)。

十一人塚からさらに住宅地の中を抜けて行った先に、白山神社があります。

途中にある橋の上から見た稲村ケ崎

 

50年前は参詣者が絶えなかったといわれる白山神社ですが、訪れてみるととてもそうは思えない感じでした。

雑草が生えてあまり訪れる人は少ない印象です。

 

白山神社の階段を登っていくと……神社の社が現れます。住宅地の中でも、この辺りだけ少し雰囲気が違います。

質素な社でしたが、お供え物がいくつか置かれてました。

稲村ケ崎

夕日の時間になったので白山神社を出て稲村ケ崎に向かいましたが、既に日は沈んでました。

江ノ島方面に向かう道は、相変わらずの大渋滞でした。

稲村ケ崎に到着すると、公園内は夕陽を見るために集まった人でいっぱいでした。

国道134号線は滑川からずっと渋滞でした。ゴールデンウィークは、鎌倉の道は大渋滞となりますので注意です。

 

夕日に照らされて富士山のシルエットが浮かび上がって少し美しかったです。

江ノ島と富士山

 

結局、ゴールデンウィークは稲村ケ崎と周辺を回っただけでした。