天気が良かった日を選んで神奈川県三浦市の「新井城址」と「油壷湾」に行ってきました。
釣りと油壷マリンパークが目的で、今までに何十回と来てる、管理人にはなじみの場所です。
かなり久しぶりに油壷に来ましたが、駐車場料金が値上がりしてました。
新井城址の看板を抜けると海水浴場がありますが、ここからは時季によって富士山が見えます。
最寄り駅の京浜急行線「三崎口」駅から4、5km離れているように、交通の便が良くないことから穴場の海水浴場となってます。
三浦市観光案内版の横を抜けていくと新井城址の看板がある
油壷の市営駐車場から油壷マリンパークへ向かう途中に三浦市観光案内版があるのですが、この案内板の手前を左に入っていくと新井城址があります。
左手には油壷湾がありますが、木が邪魔で見えにくいです。
3分くらい進んでいくと新井城址がありますが、立入禁止の柵があります。
三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壷湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は、北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていました。引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることができず、三浦勢に時を稼がれています。現在は、関東大震災による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りに優れた構えであったといえます。室町時代の居城としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀や土塁に往時をしのぶことができます。
三浦市
相模の三浦氏は、神奈川の三浦半島に勢力を伸ばした中世時代の武家の一族です。
鎌倉時代以前から三浦を領地に活躍していて、源頼朝挙兵のときはいち早く頼朝に味方しています。
鎌倉幕府創設期には、幕府の重鎮として十三人の合議制の一人でもありました。
三浦氏は、南北朝時代や室町時代を経ても三浦半島一帯に影響を支配していました。
戦国時代になると伊豆の伊勢新九郎(北条早雲)が相模国内に侵入し、小田原城を陥落させて西相模を領有することになります。
やがて相模の平定に乗り出した伊勢新九郎と相模三浦氏は対立するようになります。
当時の三浦氏は息子に家督を譲った三浦同寸が一族を率いていましたが、伊勢新九郎と戦闘を続けるも次第に三浦へと追いつめられていきます。
油壷にある新井城で、3年にわたって籠城をつづけた同寸でしたが、1516年に城は落城して三浦氏は滅亡してしまいました。
木々の合間から見える油壷湾
「油壷湾」の由来とかながわの景勝50選の石碑
さらに進んでいくと油壷湾の名前の由来が書いてある看板と、かながわの景勝50選の石碑があります。
油壷湾は「かながわの景勝50選」に選ばれてるようです。
油壷の名のいわれは、永正十三年(一五一六年)新井城(今の油壷一体)を最後の居城として立て籠もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに滅亡し、一族の将三浦同寸義同(よしあつ)をはじめその子荒次郎義意は、自刃、ほかの将兵も討死、または油壷湾へ投身したと伝えられそのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世、「油壷」といわれるようになりました。
北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず、丑寅の方と未申の方より電(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」
三浦市
油壷湾のいわれは、三浦一族の血によって湾一帯が油を流したようになったからという、何ともおどろおどろしい話でした。
油壷湾の様子
油壷を歩いてみましたが、確かに三方が海で囲まれていて、周りはどこを向いても海といった感じです。
上からだと木が邪魔だったので、下に降りてみることにしました。
一旦引き返したあと、脇にあった道を入ってみました。
水に触れてみましたが、三浦まで来ると横浜や湘南の海より水がきれいです。
少し南に行くと京急油壷マリーナがありました。
なかなか優雅です。
油壷湾のまとめ
・油壷の語源は、三浦一族滅亡のときに流れた血によって、湾一帯が油を流したように見えたから。
・油壷湾は、かながわの景勝50選に選ばれるほどの景勝に優れた場所だった。
・現在の油壷湾にはマリーナがある。
最近、かながわの景勝50選に選ばれてる場所を訪れてますが、実はそこまでたいした景色でないことがようやく分かってきました。