鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」と「岩船地蔵堂」

鎌倉市のホームページを見ていたら、鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」にかまくら物語の看板が設置されているということを知ったので行ってきました。

亀ヶ谷坂は何度か通ってますが、看板が設置されていることは気付きませんでした。

亀ヶ谷坂の近くにある「岩船地蔵堂」も通り沿いなので、ついでに立ち寄りました。

本当は浄光明寺にも寄りたかったのですが、当日は開いてませんでした。

亀ヶ谷坂は鎌倉七口の一つ

鎌倉時代の鎌倉は三方が山に囲まれていたので、鎌倉と外をつなぐための陸路が切り拓かれました。

山を切りひらいて造られた道は切通しと呼ばれ、切通しを防げば兵を進めるのは困難で、防衛上の重要地点にもなりました。

切通の近くには武士の邸宅が置かれ、切通しを通って兵を送り込めるよう、常盤や金沢といった周辺には北条氏一門の有力な武将が邸宅を構えていました。

 

切通の中でも、特に重要なものが「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼ばれる切通しです。

「亀ヶ谷坂」は、鎌倉七口の一つで、扇ガ谷と山ノ内を結ぶ切通しです。

元治元年(1240年)に鎌倉幕府3代執権北条泰時によって開削されたといわれています。

亀ヶ谷坂の途中にある鎌倉市教育委員会の案内

「この道は、扇が谷と山ノ内とを結ぶ、亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通とは、山を切り開いて造られた道のことで、交通を容易にするとともに、防衛の拠点ともなっていました。

亀ヶ谷坂が造られた正確な時期は分かりませんが、13世紀の中ごろには切通しとして整備されていたようです。『吾妻鏡』によれば、幕府が鎌倉市中の7箇所の商業区域の1つとして「亀谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と、鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は、経済的にも、軍事的にも、重要な場所だったことが分かります。

江戸時代には「鎌倉七口」の1つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。」

 

普段の亀ヶ谷坂は歩いてる人も少ないです。車は通れず、自転車やバイクなら通ることが可能です。

亀ヶ谷の道は整備されているため、今でも抜け道として利用できますが、当日は犬を散歩している一人とだけすれ違ったのみでした。

 

坂が急なので自転車だときついです。

鎌倉ものがたり 亀ヶ谷坂

鎌倉市の観光事業として、マンガ「鎌倉ものがたり」の作者の協力による「一色先生の足跡板」が鎌倉市内各地にに設置されています。

このプロジェクトは、平成29年度からクラウドファンディングによって実施され、平成30年度には第2弾が実施されました。

 

今までに設置されたのは、葛原岡神社、十二所、鎌倉国宝館、鎌倉市中央図書館、鎌倉市役所本庁舎の5箇所です。

平成31年3月現在では、さらに亀ヶ谷坂、名越切通、鎌倉宮、西御門、北鎌倉の5箇所が追加されました。

 

鎌倉ものがたりのファンの人は、一色先生足跡板めぐりをするのも楽しめるのでは。

ご報告が遅れてしまいましたが、去る平成31年3月29日(金)に、
「一色先生の足跡板」5基の設置が無事に完了いたしました!
随時ご紹介する、と言っていた設置場所につきまして、
半端な紹介のまま設置を終えてしまい、申し訳ございませんでした。
最終的な設置位置は次のとおりです。

・亀ヶ谷坂 ・名越切通 ・鎌倉宮(薪能)
・西御門  ・北鎌倉

「鎌倉市ホームページ 一色先生の足跡板設置プロジェクトより」

漫画「鎌倉ものがたり」一色先生の足跡板設置プロジェクト第2弾

 

「亀ヶ谷坂は、鎌倉が天然の要害であることがよくわかる特徴的な名所、切通(きりどおし)の一つです。扇ヶ谷から山ノ内に出る道のため往来が多く、商売で賑わったことが鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』にも記されていることから、国史跡に指定されています。

「亀ヶ谷」の名前の由来ですが、一説には、むかし、建長寺の大覚池にいた亀が、「たまにはこの世を見てみたい。」とこの坂を上りましたが、坂が急なため上ることができず引き返してきたことから「亀返坂(かめがえりざか)」といわれるようになり、いつからか「亀ヶ谷坂」となったと伝えられています。

漫画「鎌倉ものがたり」では、数百年を生きる鎌倉のネコの総大将「猫王」の住処として描かれています。猫王は、昔この坂を越えた先に実在した旅館「香風園」で飼われていた2匹の猫があまりにも巨大で面白かったため、2匹のうち1匹をモデルに西岸先生が生み出したそうです。」

岩船地蔵堂

扇ガ谷にある「岩船地蔵堂」には、源頼朝の娘の大姫の守本尊が祀られてます。

大姫は木曽義仲の嫡男義高と婚約しましたが、後に頼朝と義仲は対立してしまい、義仲は討たれ、義高は逃亡を図ったため頼朝の配下によって処刑されてしまいました。

婚約者だった義高が討たれたことを聞いた大姫は、これ以後心を病んでしまい、20歳で亡くなりました。

「海蔵寺 岩船地蔵堂」と刻んである石柱

岩船地蔵堂は、亀ヶ谷坂を下った先にあります。

 

「亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。

木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝御息女之守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。

「北条九代記」にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。

このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。

心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通り下さい。」

 

・岩船地蔵堂所在地 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目3