戦国時代というと織田信長を中心になりがちなので、信長と37歳年の離れた毛利元就になると老人のイメージで描かれていることが多いのではないでしょうか。
信長が出てくる頃になると、毛利家は大内家を滅ぼして尼子家を攻略中でしたが、その頃の元就は50歳を超えています。
元就が戦国一の戦略家となれたのも70歳以上の長寿が関係しており、毛利家が版図を急拡大したのは50歳を超えてからです。
毛利元就は、現在の広島県(安芸)を本拠にして中国地方に覇を唱えた人物ですが、元就が家督を相続したときの毛利家は安芸の一土豪に過ぎませんでした。
しかも、北は下剋上の先駆者として知られる尼子経久が大大名として存在し、西は西日本一の大大名として朝鮮とも交易して富を蓄えていた大内家があるなど、いつ滅んでもおかしくない状況でした。
織田信長も今川義元という有力大名と接していましたが、状況でいえば元就の方が厳しかったといえます。
元就は、状況に応じて大内家と尼子家の味方につき、周りの豪族とは交渉や婚姻政策を通じて安芸国内で影響力をつけていきます。
兵法書として有名な孫子というと、武田信玄が手本にしたことで有名ですが、毛利元就も読んでいたそうです。毛利家は、もともと学者の大江氏の家系なので、孫子は代々伝わっていたようです。
山岡荘八「毛利元就」、幼少で家臣に城を乗っ取られてしまう
戦国時代の小説を読むと、たいていは毛利元就はおじさんやおじいさんで描かれてるので、元就の幼少時代は意外と知られていません。
元就は桶狭間の戦いの時には60歳を超えており、その頃には毛利家は中国地方最大の大名になっていましたが、元就が幼少の頃の毛利家は、安芸(広島)の一土豪に過ぎませんでした。
それどころか元就が幼少の頃は、家臣に城を乗っ取られるといった目にも遭っており、苦労したことでは信長や家康以上かもしれません。
小説は、応仁の乱から40年以上経過した中国地方が舞台です。信長が誕生する30年ほど前から始まります。
「永正三年といえば、中国筋ばかりか、日本国中が、手の付けられぬほどに乱れ切った文字通りの乱世だったのだ。
足利将軍も、京に義澄あり、山口に義尹ありで相争い、管領の細川、山名は死闘に明け暮れ、先年後土御門天皇が崩御なされても、葬儀も出来ないという時代であった。」
毛利元就が活躍した舞台はそんな時代でした。
山岡荘八「毛利元就」では、元就幼少の頃から始まるので、元就の前半生を小説を通して知ることができます。
厳島合戦やその後の毛利家は、他にも小説が出てますが、元就の前半生を舞台にした小説は意外と少ないです。
当主として認める連署状、宿敵との婚姻政策、三本の矢など、元就一流の気の利いた配慮や人間味あふれるシーンも多く描かれています。
山岡荘八氏の小説の主人公は、人間味のある人物として描かれることが多いですが、この毛利元就もそうです。
毛利元就1巻「安芸国内で影響力を高める元就」
毛利元就1巻は、永正三年(1506)三月、元就が8歳、9歳の少年の頃の話から始まります。
当時の毛利家の当主は、安芸(広島)の高田郡にある吉田郡山城を拠点にした元就の兄の興元でした。
元就は、父弘元の隠居城の猿懸(さるがけ)城で弘元と一緒に住んでましたが、弘元が死亡したのを機に家臣に城を乗っ取られて追い出されてしまいます。
城を追い出された元就は、継母の杉の方と一緒に城を出るはめになります。この杉の方のおかげもあって元就は成長していきます。
やがて兄の興元も24歳で急死すると、20歳の元就は興元の子の後見役になります。
毛利元就の名前が知られるようになったのは、安芸守護の武田家を討ったことでした。兵力で劣る元就は巧みな戦略で武田家を破ります。
その後、尼子の侵入も撃退するなど、だんだんと安芸の豪族からも頼られる存在になっていきます。
毛利元就1巻
「応仁の乱から三十年。世はまさに乱世。中国地方もまた、山口に大内義興が前将軍足利義尹を擁して上洛をねらい、出雲には老虎尼子経久が牙を光らせていた。その二大勢力の間に揺れる小国安芸の毛利家に生まれた元就。かりそめの平和は父弘元の死で終止符を打たれた。十歳のみなし児城主の運命は……。」
・父があり、兄が在国している間は、とにかく平和な明け暮れだった。しかしよく考えてみれば、それは何の根もない薄氷の上にそっと置かれた偽の平和に過ぎなかった。
・人間は決して善悪相半ばして相克する者ばかりとは限らなかった。時には善意と善意が、限りない悲劇の対立を描き出してゆく場合がある。それぞれが正義と信じて行動する、その「正義――」の掴み方に根本的な差異があるからに違いなかった。
・さまざまな戦記や治乱興亡の歴史のあとなどをたずねて見ても、偉人と称されるほどの人物は、必ず禍福転為、不幸を幸福に置き換える不屈な知略を持つものだった。
毛利元就2巻「尼子の大軍を破って武名を上げる元就」
毛利元就2巻は、元就が大内家に従属したために、大内家と敵対する尼子家が大挙して攻めてくるところから始まります。
しかも最初は大内家の重臣・陶隆房によって援軍が送られなかったため、知恵を絞って切り抜けなければならないという状況でした。
しかし、元就は周りの豪族と協力して10分の1の兵力で尼子軍と戦い、ようやく遅れてやってきた陶軍の協力もあって尼子軍の撃退に成功します。
その後元就は、息子を吉川家や小早川家に養子に出し、安芸の豪族間の盟主的な立場になります。
その後に大内義隆による尼子家討伐軍で大内軍が大敗すると、義隆はこの後は京風の文化を享楽して政治を顧みることはなくなり、政治のことは側近の相良武任に任せるようになります。
このことがきっかけとなって、義隆は陶隆房の謀反を招くことになります。
元就は、謀反によって大内家を掌握した陶隆房を策略を用いて厳島におびき寄せて破ります。これが有名な厳島の戦いです。
小説では、ここまでが描かれています。
毛利元就2巻
「尼子六万の大軍が吉田郡山城を囲む。対する毛利元就の総勢はわずか七千。長子隆元を人質としてまで頼った大内義隆からの援軍もなく、城を枕に討死覚悟の将士に元就は自信に満ちた声で告げる。「この戦、勝った!」。元就のあざやかな智略……。だが皮肉にも、その勝利が、元就をいっそうの苦難へ追い込んでいく。」
・どのように仔細らしく説かれた戦術書も、結局はその人、その人の経験を書き綴ったものにすぎない。
・オルゴンアランという人は六人の子供を持っていた。その子供たちの一人が次郎のように戦が好きでの、一人で戦って折られてしもうた。そこで今度は他の五人を集めて五本出して、次々に試させたのじゃ。むろん誰も折れるわけはない。
・理想を達するためには、まず第一に生き残らねばならぬ。と同時に、ただ無反省に我欲のために他を殺生しつづける近隣の者などは討たねばならぬ。そのためにはまず何よりもわが家の団結が大切なのだ。
小説「毛利元就」の面白い度
この小説は、織田信長や徳川家康といった武将を既に知っている人や、中国地方に住む人なら楽しめるのではないかと思います。
織田信長や徳川家康の歴史を知らなかったり、時代背景が分からないと少し退屈に感じるかもしれません。
信長の野望や歴史ゲームのファンなら予備知識があるので楽しめると思います。
おすすめ度 73/100
おもしろ度 80/100
「小早川隆景」江宮隆之
元就の三男・小早川隆景は、才能や性格において元就に最も近いといわれています。
隆景の小説でおすすめなのがコチラです。
隆景が徳寿丸と呼ばれた幼少時代から始まります。
山岡荘八「毛利元就」では、厳島の戦いで話が終わってますが、小説「小早川隆景」では、隆景がなくなる1597年まで続いているので、金吾中納言(小早川秀秋)の養子の話も読めます。
「分別の肝要は仁愛にある」は、隆景の有名な言葉です。
「吉川元春 毛利を支えた勇将」
元就に最も似ていないのが、次男・元春かもしれません。
生涯無敗だった猛将・元春が主人公の小説です。
吉川元春は猛将として知られており、この小説の主人公なのですが、中国大返しの秀吉追撃のシーンなどの毛利家の命運を分けるシーンでは、たびたび弟の隆景においしいところを持っていかれてしまいます。
長男の隆元、次男元春、三男隆景、一人でも欠けたら違う歴史になっていると思います。