今回は前回の続きからになります。
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観音崎に到着後、ランチを済ませたので観音崎公園内を散歩することにしました。
観音崎から灯台まで
観音崎はとても寒く、水筒に熱い麦茶を入れてきて正解でした。
三浦半島は、都内から気軽に行けるツーリングコースですが、観音崎はその途中にあるのでバイクを停めて休憩している人の姿は多いです。
駐輪場ではないので、入れ代わり立ち代わりバイクが入ってきます。10分後には別のバイクが停まってました。
観音崎公園の駐車場近くに立っていた看板によれば、観音崎公園一帯は終戦まで軍の管理に置かれていたようです。
確かに公園内を散策すると、砲台跡や貯蔵庫跡の姿を見ることができます。日を改めて砲台跡めぐりでもしたいですね。
バスロータリー近くにある案内板。
全てをまわるには時間がかかりそうなので、今回は灯台までにします。
観音崎は、「かながわの景勝50選」にも選ばれています。
横須賀では、大楠山、荒崎、秋谷の立石、塚山公園が「かながわの景勝50選」に選ばれています。
写真では分かりにくいですが、海の向こうに房総半島が見えます。肉眼でハッキリと確認できました。
観音崎は、三浦半島の東に位置し、東京湾に突き出るような形をしているため、房総半島の富津岬まで約6キロの距離しかなく、横浜よりも房総半島の方がハッキリと見えます。
観音崎の公園内には、様々な案内・解説があるので、散歩してまわるだけでもいろいろなことを知ることができます。
観音崎の海辺は、岩場が多く、磯遊びなどに適しています。
理科の勉強みたいな案内。
少し歩くと広場のような場所がありますが、広場の奥から山に登っていくこともできます。
横浜方面を見てみたら、みなとみらいの建物が見えました。
公園内は、きれいに整備されています。すぐ左は、階段があってそこから岩場に下りれます。
岩場の先で釣りをしている人がいました。
この洞窟は、1200年以上の歴史をもつ由緒ある洞窟のようです。
行基がこの洞窟に住んでいた大蛇を退治してその霊を祀ったという歴史があるそうです。
公園内では、様々な植物を見ることができます。
タブノキ、ヤブツバキ、トベラ、マサキ、ガクアジサイ、オニヤブソテツ、ツワブキ、アシタバが生えています。
横須賀には、ヴェルニー公園という有名な公園がありますが、あのヴェルニーは初代観音崎灯台の設計にも関わっています。
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房総半島と東京湾を通る船です。観音崎の前を毎日500隻もの船が通って行くそうです。この日も大きな船から小さな船まで前を通って行きました。
観音崎の地名は、奈良時代に行基が十一面観音を海蝕洞穴に納めたことに由来するそうです。
この辺りには、観音寺という寺があったようです。
途中には、ベンチや休憩場所もあります。休憩所の近くには公衆トイレもあります。トイレは公園内にいくつかあります。
『燈台へ行く道 西脇順三郎
まだ夏が終わらない
燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
いろいろの人間や
小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのつて
木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が
少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいつたことを
考えながら歩いた』
駐車場から10分程歩くと灯台に続く階段が見えてきます。
最初は、灯台に上る予定はありませんでしたが、行くのを面倒くさがっていた知人が、遠くから灯台を見て興味を持ったようで、急遽上ることになりました。
「横須賀市指定市民文化資産 観音崎灯台」の碑
灯台に続く階段を昇っている途中にあった木。大きな地震があったら倒れてきそうです。
階段の数はそんなに多くはありませんが、普段運動しない人にはきついようです。
7,8分くらい階段を昇ると、灯台入口が見えてきます。先客がいましたが、平日は訪れる人は少ないです。
こちらは灯台の脇の道です。
今回は行きませんが、以前歩いて行った時は、この先に戦前に使われていたと思われる火薬庫やトンネル、砲台がありました。
観音崎灯台に設置してある看板
観音崎灯台は、横須賀風物百選に選ばれています。
横須賀風物百選案内板より
『明治維新を二年後にひかえた慶応二年(1866)五月、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を結びました。その第十一条に、灯明台を備えなければならないことがうたってあります。また、各国が提出した灯明台箇所書には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されてありました。
幕府が倒れ、明治元年(1868)となりましたが、九月十七日に灯台の建設が始められました。横須賀製鉄所首長であったフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設を担当することになりました。横須賀製鉄所で作られたレンガと石灰を使い四角形白塗装の建物とフランス製レンズを備えた灯台が、十二月二十九日に完成しました。そして、翌明治二年一月一日に我が国最初の洋式灯台が光を発しました。
大正十二年(1923)六月二十六日に光源として白熱電燈が用いられるまでは、菜種や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきました。
その初代灯台は、大正十一年(1922)四月二十六日の地震により大亀裂を生じました。翌年三月五日に二代目の灯台が改築されましたが、五ヶ月を経た九月一日の関東大震災で崩壊してしまいました。現在の灯台は、大正十四年(1925)六月一日に完成した三代目のものです。
構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味わわせてくれます。
・霧いかに深くとも嵐強くとも 高浜虚子
・汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな 初代海上保安庁長官 大久保武雄』
横須賀を回ってると、横須賀風物百選の碑をよく見かけますが、あまり話題になりませんよね。馬堀海岸の団地で横須賀風物百選に選ばれてるくらいですから……。
灯台の参観料は、大人(中学生以上)200円です。
参観時間は、5月~9月は午前9時から午後4時30分まで、10月~4月は午前9時から午後4時までとなっています。
灯台の配置図です。
入口の横に資料室があります。
資料室はカメラ撮影が禁止となっていました。資料室に興味がある人は実際に行って観てください。
「汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな」大久保武雄の句
高浜虚子も観音崎を訪れているとは驚きです。
観音崎の灯台は、日本で最初に建てられた洋式灯台です。現在の灯台は三代目にあたります。
建物のドアが灯台の入口です。
日晷儀台(にっきぎだい)
日晷儀は、太陽の動きを利用した日時計のことで、これは実際に利用されていたものです。
灯ろう
この灯ろうも平成2年11月まで実際に使用されていたものだそうです。
霧信号吹鳴器
霧や雪で視界が不良になった場合に音で知らせるそうです。この吹鳴器も平成元年4月まで使用されていたそうです。
観音崎灯台内部へ、灯台からの眺め
次は、観音崎灯台に上るため入口に向かいます。
灯台の上へは、狭い階段を昇って行きます。入口近くにも貴重なものが置いてありました。
入口に貼ってあったポスターによると、日本には実際に上ることができる灯台が16基あるそうで、その一つがこの観音崎灯台です。
階段は狭いので上って行く際に下りる人がいたらなんとかかわせる程度の幅しかありません。
[st-kaiwa1]灯台上部の出口は天井が低いので頭をぶつけないように注意してください。[/st-kaiwa1]
そして、灯台の上からの眺めがこちらです。
灯台の上からは、房総半島が良く見えました。
観音崎の前には、大きな船が通って行きます。
横浜方面と灯台まで来た道が見えます。
灯台の上から見た入口です。
上から下を見下ろしてみましたが、思ったより高いです。
房総半島の様子が分かったおかげで千葉を身近に感じることができました。
冬場は空気が澄んでいるので遠くが良く分かります。
戦国時代は、里見家の水軍が房総半島から相模まで攻め寄せてきたそうで、三浦半島を荒らしたという記録が各所に残っています。
また、日本武尊もこの近くの海から房総半島に渡ったと言われています。
観音崎公園は、海辺の公園としては自然も多く、野鳥も多いようです。
[st-kaiwa1]管理人は、野鳥には詳しくないので、この鳥が何なのか分かりませんが、何種類かの鳥を見かけました。[/st-kaiwa1]
観音崎周辺の海水はきれい
帰る際に岩場に下りてみましたが、横浜市金沢区の海の公園から20キロも離れてないのに海水はそこそこきれいでした。
以前訪れたときの金沢区の海は、お世辞にもきれいとは言えませんでした。それに比べるとだいぶきれいです。
クロマツと岩場がいい雰囲気です。
海辺には、1日に2回の潮の満ち引きがあるため、岩場にカニや魚が入り込んでいることもあります。
観音崎の岩場では、カニの他にエビやイソギンチャク、フジツボといった磯の生き物を見ることができます。
海水がたまった潮だまりでは、ヤドカリが見れることもあります。子供にはもってこいの遊び場です。
岩の上には藻が付いているので、滑りやすくなっています。
同じ三浦半島でも西側と東側とでは海岸の様子が違うようです。
今回のまとめ
・遠くの景色は、夏より冬の方が遠くまで見える。
・観音崎の駐車場は、繁忙期(土日祝日、夏休み、正月など)以外は無料。
・観音崎の灯台は上まで階段で昇れる。
・横浜よりも富津市などの房総半島の方が近いのでよく見える。
・観音崎の灯台は、日本で最初の洋式灯台。
・岩場ではカニやエビ、ヒトデなどを見ることもできる。