2019年4月1日に「令和」という元号が発表されるということで、新しい元号の発表を実家で見てました。
新しい元号は、5月1日から適用されるそうです。
数日を実家で過ごした間、鎌倉三大寺社と周辺をまわって写真を撮ってきました。
鎌倉三大寺社は、源頼朝が建立したといわれている3つの寺院をいい、勝長寿院と永福寺と鶴岡八幡宮の3つをいいます。ただし、鶴岡八幡宮以外は現存していません。
ただ、永福寺の跡地については、大規模な遺構が残っており、開園時間内なら見学できます。
勝長寿院跡地
勝長寿院は、大御堂ヶ谷という場所にあるため大御堂とも呼ばれています。
勝長寿院には、定朝作の本尊・金色阿弥陀仏像を始め、運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が立ち並んでいたそうです。
鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって保護されていましたが、十六世紀頃に廃絶したようです。
現在の跡地には住宅が建ち並んでおり、史跡もその中にひっそりとあります。
勝長寿院跡地には、頼朝の父である義朝と義朝に最後まで付き従って共に最期を遂げた鎌田政清の墓が立っています。
勝長寿院旧蹟
「院は文治元年源頼朝の先考義朝を祀らんが為に草創する所、一に南御堂又大御堂と言う此の地を大御堂が谷と言うは是が為なり。実朝及び政子も亦此の地に葬られたりと伝へらるれども、其墓今は扇が谷寿福寺にあり。」
左が源義朝の墓、右が鎌田政家(政清)の墓とのことです。
長勝寿院跡のアクセス
所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目6−20
史跡は、金沢鎌倉街道の大御堂橋を入った先にあります。
永福寺跡地
永福寺(ようふくじ)の始まりは、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした際に合戦で戦死した人々の霊を弔うためといわれています。
平泉の二階堂大長寿院を模範にして建久3年(1192)に建立されました。
二階堂は、この辺りの地名にもなっています。
入口で配布していた永福寺のパンフレットによれば、何度も火災などによって焼失しており、罹災後何度も再建されてきましたが、1405年の火災後は再建されることなく、廃絶してしまったようです。
湘南工科大学が作成した永福寺の復元想像CGです。
永福寺跡の案内マップです。
何も建ってないせいか、永福寺跡地が広く感じます。
観光客は少ない穴場スポットです。華はないですが国の指定史跡になっています。
「南翼廊」は、阿弥陀堂の南側にあった翼廊です。南に約13.4mと東に折れて東西に約27.7mの長さがあったそうです。
南翼廊の南面には、間口約4.8m奥行き約3.6mの四脚門といった規模の「南中門」があったそうな。
二階堂の南側には、「阿弥陀堂」という脇堂がありました。
阿弥陀如来を本尊としていたので阿弥陀堂と呼ばれました。
「南複廊」は、二階堂と阿弥陀堂をつなぐ長さ約12.7mの建物です。
永福寺の中心となる仏堂が「二階堂」です。
二階堂には、釈迦如来が本尊として安置されていたようです。
三堂の前には細長い池があります。
「北複廊」は、二階堂と薬師堂をつなぐ建物です。
「薬師堂」は、二階堂の北側に建っていた脇堂です。
薬師堂には、薬師如来が本尊として安置されていたといわれています。
釣殿が寺院建築にあるのは大変珍しいそうです。
釣殿は池に面した建物のことです。
永福寺跡のアクセス
所在地 神奈川県鎌倉市二階堂
永福寺跡は、鎌倉宮の前の道を通ってさらに進んだ場所にあります。
駐輪場の看板があったので置かせてもらいました。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、源頼朝が建立した三大神社の中で唯一現存する寺院です。
また、鶴岡八幡宮は源氏の守護神であり、鎌倉を代表する寺院の一つです。
まあ、今更説明するまでもないですね。
現在は、日本各地で外国人観光客を見かけるようになりましたが、鎌倉で最も多く外国人を見かけるのがこの鶴岡八幡宮です。
二の鳥居と段葛です。
三の鳥居です。
鶴岡八幡宮の本宮です。
留学生とも記念写真を撮りました。
鶴岡八幡宮のアクセス
所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31
鎌倉三大寺社のまとめ
鎌倉三大寺社は、源頼朝が建立した鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院のことをいう。
現存しているのは鶴岡八幡宮のみ、永福寺は跡地が現存している。