司馬遼太郎の「峠」は、長岡藩の河井継之助が主人公の歴史小説

管理人の好きな小説の一つに、司馬遼太郎の歴史小説「峠」があります。

峠が2020年に映画化されるという話を聞いたので、再び読んでみました。

追記:新型コロナウィルスの蔓延のため公開が2022年に延期されたようです。

 

峠の主人公は、現在の新潟県長岡市にあった長岡藩の家老河井継之助です。

長岡花火大会のついでですが、この本を読んだのがきっかけで新政府軍と長岡藩の戦場になった「朝日山」や「榎峠」にも行きました。

「峠」河井継之助が主人公の歴史小説

峠は、幕末の長岡藩家老、河井継之助が主人公の長編歴史小説です。

長編小説なので、上巻・中巻・下巻と3冊もあります。

以下、Amazonでの峠の紹介です。

壮大な野心を藩の運命に賭して幕末の混乱期を生きた英傑の生涯!

幕末、雪深い越後長岡藩から一人の藩士が江戸に出府した。藩の持て余し者でもあったこの男、河井継之助は、いくつかの塾に学びながら、詩文、洋学など単なる知識を得るための勉学は一切せず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうと努めるのであった。さらに、江戸の学問にあきたらなくなった河井は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するため旅に出る。

 

燃える情熱と、激烈な行動力……一介の武士から長岡藩筆頭家老に栄進、壮大な野心と抱負を藩の運命にかけて、幕末・維新の混乱期に挑んだ英傑河井継之助の生涯!

(前編の帯から)

 

官軍に就くか、幕府に従うか?……その去就に迷う長岡藩の運命をになって、幕末動乱の時代を生き抜こうとした英傑河井継之助―その強烈無比の精神と行動のドラマを描く!

(後編の帯から)

本の内容紹介を読んでると興味をかきたてられます。

歴史小説のメリットは、楽しみながら歴史を学べるということです。

司馬遼太郎は、人気の歴史作家

司馬遼太郎は、歴史作家の人気投票でも常に1位に選ばれる人気作家です。

会社経営者は歴史小説を好んで読む人が多いそうですが、司馬さんの小説は経営者からの支持も厚く、経営者が選ぶ好きな小説家でも1位です。

 

残念ながら司馬さんは、1996年に72歳でお亡くなりになられていますが、「国盗り物語」「関ケ原」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「燃えよ剣」「梟の城」「世に棲む日々」といった有名な作品をたくさん遺されています。

中には項羽と劉邦といった中国を舞台にした小説もありますが、基本的には日本人を主人公とした作品が多いです。

司馬さんの小説を読んで歴史人物を知った人も多いと思いますが、歴史人物を知るために司馬作品を手にする人も多いです。

司馬作品は、登場人物の会話で進められるシーンが多いため、他の歴史小説と比べても読みやすいし、感情移入しやすいことから、若い世代にもファンが多いです。

 

ちなみに管理人おすすめの小説は、「花神」「峠」「菜の花の沖」といった少しマイナーな人物を主人公にした作品です。

長岡藩家老・河井継之助

5人兄弟の長男として生まれた継之助は、若い頃から藩学の朱子学に疑問を抱き、自ら進んで陽明学を学んだといわれています。

また、陽明学者の山田方谷を訪ねて、わざわざ備中(岡山県)まで行ったりもしています。

長岡藩士 河井継之助

 

継之助は、27歳の頃に江戸遊学が認められ、遊学中にペリーの来航に際し、長岡藩主・牧野忠雅に藩政改革を献言しています。

継之助が生まれた河井家は、元々家老ではなく、長岡藩の下級武士だったため、継之助の献言は藩の重役の反感を買ってしまいます。

しかし、混乱期の幕末において、長岡藩でも藩政改革が叫ばれるようになり、力を認められた継之助は次第に大抜擢されていきます。

 

1865年に藩主の牧野忠恭が京都所司代になったのを機に継之助も上洛し、やがて外様吟味役に取り立てられます。

外様吟味役後も累進し、郡奉行、町奉行に就任、藩政改革に乗り出していきます。

継之助は、藩政改革には財源が必要として資金を徴収したり、治水を行い、実力次第で人材を登用し、商業推進にも積極的に取り組んでいきました。

その後も継之助は、どんどん昇進し、1868年には有名な小諸騒動にも関わって鎮静させます。

 

継之助は、家老に取り立てられた際は、藩士の禄高を100石に平準化し、兵制の再編なども行いました。

継之助の改革によって近代化を遂げた長岡藩は、当時の最先端の武器であるガトリング砲を2台保有することにも成功しました。

ガトリング砲は当時の日本には3台しかなく、そのうちの2台を長岡藩が保有していたことになります。

これにより長岡藩は、表向きは7万4千石の小藩でしたが、薩長からも一目置かれるようになりました。

出典 歴史群像シリーズ 会津戦争

 

門閥家老ながら継之助に同調し、一緒になって藩政改革をした家老に山本帯刀がいます。この山本家に高野家から養子に入ったのが後の山本五十六です。

今は愛想も継之助

諸国を遊学中、さんざん遊蕩した継之助でしたが、奉行に就任すると藩の遊郭を廃止します。

継之助自身が放蕩好きのくせに、遊郭を廃止したため、それまで馴染みだった芸者達から憎まれます。

 

その時に長岡城下で流行った歌が、「かわいかわいと今朝まで想い、今は愛想も継之助」でした。

小千谷談判決裂で決まった長岡の命運

鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争の勃発により、各大名家は薩長か幕府のどちらに就くかを選択しなければならなくなりました。

ちなみに長岡藩は、三河以来の徳川家の譜代家臣です。

 

長岡藩は、1868年4月に河井継之助を軍事総督に任命します。

5月2日、小千谷の慈眼寺で薩長軍の軍監岩村精一郎に対して中立を説くと、もともと身分が卑しかった岩村は馬鹿にされないよう居丈高にふるまい、薩長の権力を背景に継之助の言うことをあたまから聞かず追い返します。

継之助にとっては、思わぬ談判決裂でした。

 

5月10日、榎峠で始まった薩長と長岡藩の戦いは、朝日山の争奪戦となり、最初は連勝した長岡藩でしたが、やがて兵力で勝る薩長軍に押され始め、遂には長岡城は落城してしまいます。

一度は長岡城を奪い返しましたが、この時に継之助は負傷し、会津へと落ち延びる途中で生涯を終えました。

河井継之助の影響を受けた山本五十六と石原莞爾

太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官・山本五十六と、陸軍稀代の戦略家と呼ばれた石原莞爾は、河井継之助の影響を受けたといわれています。

 

山本五十六は、長岡の出身で、彼が養子に入った山本家は長岡藩の門閥家老の家柄にあたります。

継之助と共に新政府軍と戦って処刑された山本帯刀の養子になった五十六は、ロンドン軍縮会議に臨む際に河井継之助を引き合いに出して決心を語っています。

 

また、石原莞爾は、山形の鶴岡出身の軍人で、祖父は河井継之助と共に北越戦争を戦ったといわれています。

石原莞爾は、河井継之助をテーマにして陸軍大学校の卒業論文を書いているほど、継之助から影響を受けています。

まとめ

司馬遼太郎さんの小説「峠」は、長岡藩の家老河井継之助を主人公にした歴史小説です。

河井継之助は、幕府側について生涯を終えましたが、薩長側で生まれたら日本政府を背負って立つ人物になったはずです。

 

河井継之助は、山本五十六や石原莞爾といった有名な軍人にも影響を与えた人物なので、今から映画が楽しみです。