10月の3連休を利用して幼馴染に会いに行きました。
幼馴染は、社会に出てから会社で嫌なことにあってしまい、その後は実家で引きこもり生活をしていたのですが、両親も定年になったため、東京の賃貸生活は年金では生活していけないということで、家族そろって親の実家がある地方に引っ越していきました。
幼馴染が元気そうでとりあえずホッとしましたが、こういった人たちは社会から存在しないかのように扱われてる気がします。
幼馴染に会った帰り際に教えてもらったのが、「名張藤堂家邸跡」です。
名張藤堂家邸宅跡へのアクセス
名張は、三重県の西部にある都市です。
名張藤堂家邸宅跡は、近鉄大阪線「名張駅」から徒歩で5分くらいの場所にあります。
月曜日と木曜日を除いて9時から17時の間だけ公開しているようです。
料金は、大人で200円、高校生が100円、高校生未満は無料でした。
名張藤堂家とは
名張藤堂邸跡は、三重県の指定史跡に指定されています。
名張藤堂家は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男で、藤堂高虎の養子となった高吉に始まる。寛永十三年(一六三六)以来名張にあって、二万石を給され屋敷を構えた。
建物は宝永七年(一七一〇)の名張大火で再建され、明治初年にその大部分が失われたが「御西」と称された中奥、祝之間、茶室など日常生活に使用された奥向きの一部と、正門(寿栄神社前に移設)が残る。
全国的に現存遺構の少ない近世上級武士の住まいの一例として貴重である。
名張市教育委員会
当初、津藩初代藩主藤堂高虎に子がいないことから高虎の養子になった高吉でしたが、その後、高虎に実子高次が生まれたため、津藩の後継者は高次となります。
やがて高虎が病死し、高次が津藩を継ぐと高吉は家臣として高次に仕えました。
寛永13年(1636)に高次の命で名張に移った高吉は名張藤堂家の祖となりました。
名張藤堂家は、津藩本家と対立しつつも取り潰されることなく続いてゆき、11代目の高節のときに明治維新を迎えています。
丹羽長秀と藤堂高虎
名張藤堂家は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男で、藤堂高虎の養子となった高吉に始まります。
丹羽長秀といえば、織田家では柴田勝家と並ぶ超重臣で、米五郎左の通称でも知られています。
豊臣秀吉の改名前の苗字である羽柴は、丹羽長秀の苗字から拝借したことは有名です。
藤堂高虎は、熊本城の加藤清正と並ぶ築城の名人として知られており、宇和島城、今治城、津城等の城を築いています。
また、浅井長政に始まって次々と主君を変えたことでも有名です。
主君を変えるたびに領地が増えていったなんて評価もあります。
藤堂高虎が出てくる「出世の白餅」の逸話を知ってる人も多いと思います。
出世の白餅の話は、浪人時代の高虎の話です。
浪人時代の高虎が旅の途中、あまりの空腹に耐えかねて宿で餅を注文して食べたのですが、餅を食べた後にお金がないことを宿の主人に告げると、主人は餅代は出世したらでいいと許してくれた上、交通費まで手渡してくれます。
その後、高虎は豊臣秀吉の弟の羽柴秀長に仕えたのがきっかけとなって出世し、やがては城持ち大名にまで上りつめます。
大名となった高虎は、恩を受けた宿屋を訪れて浪人時代の恩を返したといわれています。
また、高虎の旗印の3つの白い丸は、白餅を表しているそうです。
名張藤堂家邸跡の様子
名張藤堂家邸は、寛永13年(1636年)以来、名張に屋敷を構えました。
名張藤堂家邸跡の入り口門です。
建物内に入ると、名張藤堂家に伝わった武具や文書などを見ることができます。
近世上級武家の生活の一部が見れる現存されている邸宅は非常に珍しいそうです。
日本庭園は、見ていてほっとします。外国人ウケもよさそうです。
名張藤堂家初代の高吉が構えた屋敷は、宝永7年(1710)の名張大火で焼けてしまったそうです。今現在残っているのは、そのあとに再建されたものです。
紅葉の時期に訪れたら、また違った雰囲気が楽しめそうです。